モクズガニの成長と回遊
1994年にモクズガニの種苗を放流し、それを13年間にわたって追跡しました。個体群を人工的に発生させ、その最後まで見届け、その追跡に10年以上も費やしたわけです。これは放流後6年間の追跡調査について解説した記事です。この研究については膨大なデータが蓄積されており、いずれ論文として発表します。研究をお手伝いしてくれた卒業生のみなさんに感謝しています。

浜野龍夫:モクズガニの成長と回遊-種苗放流後6年間の追跡調査-
うみうし通信, 23号、4-7ページ(2006年)
発行元の(財)水産無脊椎動物研究所の許可を得て転載しました。


はじめに
 栽培漁業という素敵な響きに誘われて、誰もが浮き足だって21世紀の豊かな漁業を夢見ていたに違いない。放流したらこのぐらい残りそうだ、ぐらいの曖昧な感覚であっても、種苗放流事業が許される時代だった。ところが不況が続き、栽培漁業の採算性が真剣に問われ始め、各地で年々膨らむ経費を節減すべく関連事業の見直しが行われている。種苗を生産する側では種苗代金を値上げしたいところだろうが、種苗を購入する側では、放流した場合に期待できる効果を想定した上で購入する。
 ここでとりあげるモクズガニについても、すでに一部の機関では種苗生産技術は事業化のレベルまで達しているが、事業化を目前にして「種苗の売価」が問題となっている。しかし、その算定の根拠となる生態的知見、成長や生残や移動に関する信頼すべき情報、は皆無であった。


 図1. モクズガニ放流種苗. 

モクズガニの個体群は追えない

 モクズガニは、日本全域の河川に生息し、各地で食用に供されている。生活史の中で海と川を往来する通し回遊を行う。本種の成体は川を下って河口付近で交尾抱卵し、孵化したゾエア幼生は塩分のある河口~海域で育ち、稚ガニとなって川を遡り始めることがよく知られている(三宅、1993;小林, 1999;Kobayashi, 1999)。一見すると全生活史が判明したかのように誤解されているが、たとえば「個体群の中のどれくらいの数の個体が、何歳のときに、どれくらいの大きさに育って降河するのか」と聞かれたときには、何も答えられないのが現状である。水産業に直接役立つ定量的研究は行われていない。実際、ここで紹介する私の研究で明らかになっていることだが、天然界でも生理的寿命は6年以上に及ぶこと、成長の個体差が非常に大きいこと、一般に用いられる採集用具であるカニ篭では大型個体を採集してしまうこと、また、いずれの河川にもかなりの漁獲圧がかかっていると考えられることなど、個体群を追うには厄介な問題が多すぎる。もちろん年齢形質がない上に、毎年、場合によっては複数回の新規個体が大量加入するのだから、お手上げ状態である。


水産大学校とダムとモクズガニ種苗
 私が勤務する水産大学校の数少ない自慢のひとつは、新鮮な天然海水をいつでも好きなだけ使えることである。当然、田舎(下関市の北のはずれ)に立地しているゆえにできる技で、近隣には山や田畑が広がっている。そして、利水を目的とした「魚道の無いダム」がその間には点在している。こうしたダムの上流の環境を観察すると、通し回遊を行う動物は皆無だが、純淡水魚や水生昆虫などは豊富に生息し、モクズガニの生態的地位が空いたまま環境が保たれているように思えた。ちょうどタイミング良く、山口県でモクズガニの種苗生産試験も始まっていた。

 そこで、モクズガニ種苗を、ダム上流の一カ所に、一度だけ大量放流し、その個体群を追跡することを考えた。うまく行けば、成長速度、河川内移動、生残率、寿命など、放流効果の算定に必要なパラメ-タが得られる。このような研究なら特別に高価な器具は必要ない。川に通い続ける根気と体力さえあれば何とかなるはずで、外に資金援助を求めなくても自力で続けられる。


 図2. カニ篭による採集の様子.

35000
個体の種苗
 1994年5月20日、魚道のないダムの上流域の一カ所に平均甲幅3.7mm(C3)のモクズガニ種苗(山口県水産研究センターのご好意による)3万5千個体を放流した(図1)。放流前に行った事前調査では、ダム直下には多数のモクズガニがいたが、ダムより上流では天然モクズガニは採集されなかった。

 その日から川に通う生活が始まった。このおそらく生涯に一回しかないチャンスを無駄にしてはならないと、河川全域でカニ篭採集(図2、3)や潜水による徒手採集を2週間毎に行っている。さらに、降海すると考えられる時期を長めに見積もって、毎年6カ月間、定置網(地獄網と呼ばれる)をダム湖への流れ込みに設置しているが、これは2日毎に通って観察を続けている(図4)。


図3. カニ篭で採集されたモクズガニ(2000年4月).諸測定を行った後に、背甲に個体識別のための番号を貼りつけられ、再捕場所に放流される.

 当初、放流地点における徒手採集でしか再捕できなかった放流種苗が、時間の経過とともに成長し移動して、カニ篭で再捕できるようになった。さらに、放流後1年半を経てからは降河個体が定置網に入り始めた。この網に入ったカニについては、大学校へ持ち帰り、全個体を屋外大型水槽に収容して、自然海水による流水飼育を行い、個体識別して産卵と受精の有無を観察し続けている。

 放流6年目となった現在、カニ篭による採集個体数は安定しているが、徒手で再捕できる個体の数は少なくなった。しかしながら、定置網による降河個体はなお増加傾向にある。今では調査定点を減し、カニも諸計測がしやすい大きさに育った(図3)ので、気分的には楽になった。しかし、再捕個体の甲に番号を貼りつける作業や、定置網を二つに増やして設置する(図4)など、新しい研究内容が加わっているので、作業量は当初とあまり変わっていない。



図4. 降河個体を採集するための定置網(地獄網).採集効率を計算するために2つの網を連続して張ってある.

続々と判明している生態
 これまで明らかになってきたことを簡単に紹介する。まず、定点調査から判明したことは、成長速度(甲幅)の個体差が極めて大きいこと(図5)。この小さなサイズの個体は放流地付近でしか採集されない。また、オスの方がメスより成長速度が大きい。放流後、移動する場合には大部分が上流方向に移動するが、その速度は小さい。しかし、ひとたび降海を始めたときの移動速度は大きい。カニ篭では大型個体が選択的に採集され、徒手採集調査では小型個体にサイズが偏る。

 定置網と海水飼育試験からは次のようなことがわかって来た。早い個体では、稚ガニになってから1年半で降河するが、通常は3年を経過してから降河を始めること。現在6年目だが、大きく育ったカニが続々と川を下っている。降河は春期に多く、とりわけ4月の増水時に集中して起きる。また、雌雄とも、年々、降河個体の体サイズが大きくなる。降河する個体はすべて成体であり、海水中で交尾産卵するが、春に降海する個体は夏までに産卵して死亡する。一方、秋に降海する個体は非常に少ないが、海域で越年して、翌年の春に産卵し夏までに死亡すると考えられる。


 
図5. 放流後4年目の最大サイズと最小サイズ.

現場から生まれた研究
 この研究を遂行しながら、必要を感じて実施した研究がある。

 まず、単純な魚類群集が存在する場所にモクズガニの種苗を放流した場合には選択的に捕食されることをつきとめ、放流場所の選定や中間育成の実行を提案した(Suzuki et al., 1998)。また、調査に使用するカニ篭の基準餌として、サンマとオキアミを比較し、サンマの方が誘引効果が長く持続するので良いことを報告した。ただし、サンマの誘引効果も短時間のうちに低下し、その場合にはカニが頻繁に篭を出入りすることも観察されている(鈴木ら、1998)。そして、カニ篭調査に生餌(冷凍サンマ)が使えない場合の代替餌について研究を実施し、新鮮な冷凍サンマと同等の効果が期待できる常温保存可能な代替餌を提案した(和田ら、投稿中)。なお、モクズガニが遡上しやすく、かつ、水制効果にすぐれた水路の開発にも着手している(安田ら、2000; Hamano et al., in preparation)。


おわりに

 2000年4月、日本水産学会で5年間のデ-タをとりまとめてポスター講演を行ったのだが、その中で、次回の講演は放流後10年間のまとめとして2005年4月に行うことを宣言した。論文化するのは、この個体群が消滅するのを見届けてからにしたいと思っているので、さらに先のことになりそうである。しかし、現時点までに得たデ-タであっても十分な価値があるようで、講演を聞いて下さった諸機関からは、種苗売価を計算するためにこのデータを参考にしたいとの申し入れがあり、本当に嬉しく思っている。

 大学の研究室は、外部から高額な研究費を得てハイテクを駆使して華々しい成果をあげている所ばかりではない。大学(校)は、都道府県の水産試験研究機関、水産庁の水産研究所と比較すると、研究費や旅費は少ないものの、自分が希望しない限りは転勤することは少なく、また、比較的自由に時間を融通することもできる。この利点を活かすように発想転換すれば、体力勝負のロ-テク研究室の研究成果であっても社会に貢献する余地は残っているようだ。もちろん、雨の降る冷たい川でいっしょにモクズガニの調査をしてくれた学生諸君も、きっと言外の何かを感じとって水産業の振興に助力してくれるだろうと期待している。

 末筆ながら、論文未発表の内容ゆえに、詳細な数値を呈示しない拙文となったことをお詫びしたい。


文 献

小林 哲(1999)通し回遊性甲殻類モクズガニEriocheir japonica (De Haan)の生態-回遊過程と河川環境と観察. 生物科学, 51, 93-104.
Kobayashi, S.(1999)Settlement and upstream migration of the Japanese mitten crab Eriocheir japonica (de Haan). Ecology and Civil Engineering, 1、21-31.
三宅貞祥(1993)原色日本大型甲殻類図鑑(II). 保育社, 東京, p. 174.

Suzuki, T., Hamano, T., Araki, A., Hayashi, K.-I., Fujimura, H. & Y. Fujita(1998)Predation by fishes on released seedlings of the Japanese mitten crab Eriocheir japonica. Crustacean Research, 27, 1-8.
鈴木朋和、浜野龍夫、林 健一、永松公明(1998)モクズガニEriocheir japonica De Haan, 1835の入篭特性. 水産大学校研究報告, 47, 7-14.

安田陽一・大津岩夫・浜野龍夫・三矢泰彦(2000)エビ・カニ類に適した遡上水路の提案.新しい河川整備・管理の理念とそれを支援する河川技術に関するシンポジウム論文集(土木学会水理委員会河川部会), 6, 149-154.