5万分の1地形図「徳島」(明治29年測量)
地形図に見る徳島市の変遷


明治中期の徳島

  城下町・徳島の特徴は、助任川や新町川、寺島川などの吉野川の分流をそのまま水濠として利用した「島普請」にあります。 城は標高約60mの渭ノ山(表記「市嶋コ」の「コ」の字のすぐ右上)に築かれ、 中州であった徳島・福島・寺島・出来島・常三島などに侍屋敷が置かれました。 明治期になって城は破却され、侍屋敷地区は旧藩士の立ち退きにより田畑に姿を変えています。 一方、阿波の特産品である藍の流通をになったのが城下の商人たちで、町屋地区であった新町や船場は中心商業地として発展を続けます。 1889年(明治22)の市制施行時に徳島市の人口は6.3万人を数え、 この当時四国で第1位、全国でも第10位に位置する有数の商業都市でした。
 徳島−鴨島間の鉄道(現在のJR徳島線)は寺島川を埋め立てる形で敷設され、城山の南に駅が設けられているのがわかります。 図中北を流れる別宮川(表記は「川宮別」)は、川幅が約1kmと広く、長らく南北交通の障壁となっていました。 旧淡路街道の上助任−古川間の古川橋は1886年に架設された木橋で、洪水時に備え一部は舟を浮かべてつないでいたとされます。 また、図中南東部の南斎田浦には塩田が見られ、鳴門の斎田塩田と並んで十州塩田の1つに数えられていました。

写真:新町川畔の藍倉、春日橋から下流南岸を撮影(昭和初年)

  

  • このページで使用している地図は建設省国土地理院長の承認を得て、同院発行の5万分の1地形図を複製したものです(承認番号 平12総複、第195号)。
  • ここで使用しているJPEGファイルは圧縮を加えているため、実際の地形図に比べて色調や精度がやや異なります。
  • 写真の出典 岩村武勇編著「徳島県歴史写真集」(1968年,私家版) 412頁

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