5万分の1地形図「徳島」(昭和24年応急修正)
地形図に見る徳島市の変遷


終戦直後の徳島

 1945年(昭和20)7月4日未明、徳島市は米軍機による大規模な空襲を受け、旧市域の約7割が被災しました。 罹災戸数1万7183戸、罹災者は7万人余、死者約1000人、重軽傷者2000人に上ったとされます(「徳島市史」による)。 先に見た新町川畔の藍倉をはじめ、かつての城下町としてのおもかげが失われてしまったのはたいへん残念なことです。 1946年からは戦災復興事業が始まり、徳島駅前から眉山天神下までの道路が幅50mに拡張されますが、 応急修正版として発行されたこの地図にはまだ反映されていません。 しかし、被災地域の大部分では、抜本的な都市計画の見直しがおこなわれず、 それまでの街路形態や都市構造を多く残した形で再建が進みました。
 1950年(昭和25)に実施された国勢調査によると、徳島市の人口は17.7万人(1980年の境域による)。 松山市の21.5万人や高松市の21.1万人と間で差が広がり、さらに10年後には高知市にも抜かれてしまいます。 その結果、四国の県庁所在地4都市の人口ランキングは、明治初期に比べてちょうど逆転することになりました。

写真:新町橋と駅前通り、南東詰めから北に向かって撮影(昭和25年頃)

  

  • このページで使用している地図は建設省国土地理院長の承認を得て、同院発行の5万分の1地形図を複製したものです(承認番号 平12総複、第195号)。
  • ここで使用しているJPEGファイルは圧縮を加えているため、実際の地形図に比べて色調や精度がやや異なります。
  • 写真の出典 「徳島市の現勢・昭和27年版」 (1953年,徳島市役所発行) 口絵写真

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